年間数千人の日本人行方不明乳幼児は今も食人風習を持つ中国共産党観光客が食べたのか?!!Dr佐野千遥
ロシア科学アカデミー・スミルノフ学派:ドクター佐野千遥
<以下、読売新聞より転載>
“所在不明の乳幼児4176人、虐待の懸念も(2013年12月30日)
自治体が2012年度に実施した乳幼児健診を受けず、所在が確認できない乳幼児が37都道府県の334市区町村で計4176人に上ることが読売新聞の調査でわかった。
所在不明児の全国統計はなく、実態が明らかになるのは初めて。健診を受けていない子どもの虐待死事件が相次ぎ、国は昨秋、自治体に所在確認の徹底を求めたが、電話や手紙で済ませる自治体もあるなど、確認が不十分な実態が浮き彫りになった。
アンケート調査は今年11月、全国1742市区町村を対象に実施。全自治体から回答を得た。その結果、1歳未満の乳児、1歳6か月児、3歳児の各健診を受けていない乳幼児のうち、自治体の職員が家庭訪問するなどしても所在確認できなかったのは、乳児で499人、1歳6か月児で1423人、3歳児で2254人に上った。1歳半と3歳の未受診児は計約15万人で、その約2・5%にあたる。
都道府県別では、東京都の752人が最多で、埼玉県(638人)、千葉県(583人)、愛知県(453人)と続いた。人口の多い東京都の一部の区や横浜市、大阪市などが人数を集計しておらず、実際はさらに多いと見られる。
一方、全ての市町村が「ゼロ」と回答したのは、秋田、山形、石川、鳥取、島根、徳島、鹿児島の7県。ゼロと回答した市区町村の中には、保護者への電話連絡や受診を勧める手紙を送っただけで「確認を済ませた」としているところもあり、把握が不十分な可能性がある。”
<以下、RAPT氏のブログ
http://rapt.sub.jp/?p=9199 より転載。>
“また、実際に幼児が何者かに連れ去られようとした現場を目撃した人の話も、ネット上にアップされていましたのでご紹介します。
(以下、いしだしほブログより転載)
実際に誘拐未遂事件を目の当たり友人から聞いた話なのですが、大阪の某大手スーパーで買い物をしていたときの事、ひとりのお母さんが子供がいないと騒ぎ出しました。
始めはお客さん同士で探していたのですが見つからず、店員さんに協力をお願いしに行ったところ「そうですか・・・」と行ってすぐに店舗の出入り口を全て閉めたのでびっくりしたそうですがその後も店内を探しても見つからなかったそうです。
そして店舗の出入り口が開けられて店員さんと共に駐車場を探しまわっていたら、たまたま帰ろうと駐車場を歩いてたおばさんが泣きそうな子供をトランクに入れようとしていた外国人を見つけおかしいと思って「あんた何してんねん!!」とすごいけんまくでどなりつけたそうです。
外国人はすぐに子供を置いて逃走し、子供は無事もどりました。
そこのスーパーは新興住宅地で小さい子供を連れたお母さん達が多く、誘拐事件も何度かあったそうでマニュアルが設置されていました。
この他にも東京ディズニーランドは誘拐の多発地帯ですぐ目の前のおトイレに一人で行かせて行方不明になったという話しもあります。”
<RAPT氏のブログからの引用は以上。>
では以下に私・佐野千遥自身の本論に入る。
中国国内に於ける年間行方不明乳幼児数は20万人である[註1]。
日本人行方不明乳幼児数は2015年に約4000人であった。
4000 / 200000 = 1/50
[註1]:中国国内で年間20万人の乳幼児が行方不明(私のアメブロ画面はURLをクリックしてもHPが立ち上がらないように管理されてしまっていますので、お手数ですがURLはコピペしてお使いください。)
http://www.nhk.or.jp/kokusaihoudou/archive/2015/02/0209.html
中国総人口13.5億人の中、勤労者世代は、その約半分の6億人と見られる。
日本への中国人観光客の数は2015年年間約1000万人[註2]。
10000000 / 600000000 = 1 / 60
[註2]:“中国人観光客の数2015年年間約1000万人”は
http://biglife21.com/society/7326/ を御参照下さい。
1/50と1 / 60は非常に近い比率です。
中国国内のこの忽然と消えた乳幼児20万人は、今も食人風習を持つ中国人、就中中国共産党員達が(特に党の宴会に於いて)食べたと考えるのが最も順当と言える[註3]。何故なら、清朝の時期まで公に認められていた食人風習は、勿論中華民国時期、そして中国共産党の支配となった現中華人民共和国の時期も続行し[註1][註2]、本ブログの先の方で画像で示すように、中国国内裏社会では食人は日常茶飯事だからです。乳幼児だから骨も柔らかく、全部残らず食べてしまえば、証拠が一切残らない完全犯罪となる。
[註1]:中国人の食人について、慎ましやかな記述に抑えた解説がwikipediaに有るので、先ず引用しよう。
“中国におけるカニバリズムについては、日本においては桑原隲蔵による先行研究がある[31]。相田洋(中国研究者)は桑原論文を紹介する形で「南北宋後退期の武装集団ほど頻繁に食人肉を行なっている例は、以前には見当たらないように思う」と評し、「食人肉は武装集団の習慣として定着」したとしている[32]。
小室直樹の評するところによれば、中国では古代から近世にかけて食人の習慣が非常に盛んであったとされる。中国が他文化の食人と比べ特徴的なのは、食人が精神異常行為、宗教的行為、緊急避難行為などではなく、恒常的な食文化として根づいていたとされる。膨大な文献が中国における日常的な食人行為を伝えているが、中国人の道徳規範である儒教と道教は、食人についてまったく触れておらず、これは食人が中国文化において認容されていることを示している[33]。
古くは『韓非子』に「紂為肉圃、設炮烙、登糟丘、臨酒池、翼侯炙(あぶり肉)、鬼侯臘(干し肉)、梅伯醢(塩漬け肉)」という人肉料理の記述が見られる。もっともこの「醢(かい)」なる言葉は塩漬け全般を指す語でもあり、獣肉の料理を指すこともあれば、見せしめのために塩で防腐した遺体を指すこともあり、必ずしも人肉食を指すものではない。
小室直樹は「孔子は人肉を好んでいた」、「当時の食人は中国社会ではごく自然な行為であった」という説を主張している。小室によれば、この食人と纏足、科挙の三つは、日本に全く伝わらず、また日本人はそれらを全く理解できなかったとしている。小室は孔子のエピソード以外に、名君といわれた斉の桓公が「自分はいろんなものを食べてきたが、まだ人間の赤ん坊を食べたことがない」と言ったのを聞きつけた料理人の易牙が、自分の子供を殺害し調理して桓公を満足させたことをあげ、この桓公と易牙の有名な件を儒家も道家もまったく非難していない(つまり中国社会では道徳違反にあたらない)と指摘している。また三国志では劉備が支援者の民家に宿泊した際、その家の主人が自分の夫人を殺害して調理もてなし、劉備が感動したという話を紹介し、「中国社会で親戚を殺して調理しもてなし料理とすることは、最高の礼儀でさえあった」としている。ただし、この小室の意見は、一般庶民の間で日常的に人肉食が行われていた事の証明にはならず、また人肉食が最高の礼儀だったとする根拠も無い。前述の劉備の逸話は史書『三国志』ではなく、後代の小説『三国志演義』に残る話であり、史実ではない。また、同小説の原文には「不勝傷感」とあり、「感動」したのではなく、心を痛めて堪え切れず涙を流しているという文脈であり、正確ではない。
『史記』にも、飢饉や戦争により食料がなくなると、自分の子を食うに忍びなく、他人の子供と交換したのち絞め殺して食べたという記述が残っている。三国志 (歴史書)14巻『魏書 程郭董劉蔣劉傳』の程昱伝[34]に引用された『世語』(『魏晋世語』)逸文に「世語曰 初 太祖乏食 昱略其本縣 供三日糧 頗雜以人脯 由是失朝望 故位不至公」と、略奪した糧食の中に人肉が含まれていたために程昱が出世を逃した、という記述がみられる。
唐代以降は人肉食へのハードルが下がったという議論があり、例として引かれるのは『資治通鑑』の人肉の市場価格が20年で数十分の一に暴落した記録である。また自らの肉を病気の夫などに食べさせることが美談として称賛され、元代の『事林廣記』には、その行いに政府が絹や羊や田を与えて報いたという記述がある。
明の時代の李時珍による『本草綱目』人部[35]には、人肉をはじめ人間由来の漢方薬が記されている。特に宮廷を中心として、女人の血から作った薬(仙丹)が強壮剤としてもてはやされた。不妊で悩む世宗の代には、宮女に投薬してまで出血を強要したため、多くが衰弱死したという[36]。
民間では、同時代の『南村輟耕録』に、戦場での人肉食の実例と調理法が多岐にわたって紹介されている[37]。この食事方式を採用した隊では戦果が食事に直結するため、大いに士気が高揚したという。
清の時代にも依然として人肉食が残っていた。宮廷でもしばしば人肉食が行われ、高官が赤ん坊の肉を好んで調理させた逸話が伝わる[38]。著名人では、西太后が病の東太后の歓心を買うため肘肉を羹に供したという(左の肘に包帯を巻いた上での自己申告であり、真偽は不明[39])。黄昭堂によれば、台湾原住民族は「生蕃」と呼ばれ、その肉である「蕃肉」は滋養に富むとして食され、中国大陸に輸出されていた[40]。また、古来より凌遅刑(千刀万剐)という全身を切り刻む処刑方法が存在したが、刑場近辺で死刑囚の肉片が食用ないし薬用に供されていた記録があり、廃止された1905年には北京で撮影が行われている[41]。なお、著名人が同処刑後に食された事例としては、明朝の劉瑾・袁崇煥のものが挙げられる。ただし劉は酷吏、袁は名将であり、食の意図は異なるものと思われる(差異は前項参照)。
近代に入ると、この食人文化を中国の前近代性として非難批判する知識人が登場する。魯迅がその代表で、彼は小説「狂人日記」や「薬」で、中国の食人文化を厳しく指弾した。「狂人日記」は正確には強迫性障害の主人公がカニバルの幻想を抱くという内容、「薬」は人血にひたして食べる肉饅頭が肺病をなおすという風習についての内容である。
文化大革命時にも粛清という名目で人肉食が広西等で白昼堂々と行われていたという報告[42]がある。”
<[註1]は以上>
[註2]:中国人が編纂した“中国食人史”(原文中国語)を以下に引用する。漢字で書いて有るので日本人の方々には大体意味がお分かりになると思う。
“中华民国大陸時期[编辑]
1936年“3月1日万源曹家沟某家七人,饿毙四人;余三人气息奄奄,竟为逃荒饥民杀死,分割炙食无余。”[33]
1936年3月19日四川省报载:“北川县人肉每斤五百文。片口镇饥民张彭氏、何张氏、陈顺氏因饥饿难忍,挖掘死尸围食,被捕。”[34]
1936年四川《民间意识》杂志汇载四川各地吃人的消息:“松潘半边街居民陈氏,自杀其八岁的亲生女而食,食尽仍病饿而死。沿途数百里内,人血、白骨与饿死者,填满沟壑。”[35]
1937年,国军在日军的凌厉攻势下,节节敗退,豫北全境沦陷。为了阻缓日军的疯狂进攻,蒋介石密令炸开郑州花园口黄河大堤,黄河水向东南而下,夺淮入海。數十万人丧生。黄河水退后,形成400多公里的黄泛区,豫东平原的万顷良田无法耕种。黄泛区土地成为蝗虫迅速滋生的温床。
民國30年(1941)-民國32年(1943)河南省大旱,人相食。1942年河南省赈济会推选杨一峰、刘庄甫、任兆鲁三人等赴重庆,请国民党中央免除徵賦,蒋介石拒不接见。大公报主笔王芸生在1942年的一篇《看重庆,念中原》的社论中写道:“饿死的暴骨失肉,逃亡的扶老携幼,妻离子散,挤人丛,挨棍打,未必能够得到赈济委员会的登记证。吃杂草的毒发而死,吃干树皮的忍不住刺喉绞肠之苦。把妻女驮运到遥远的人肉市场,未必能够换到几斗粮食。”冯小刚於2012年拍摄的电影《一九四二》讲的正是这段时期发生的故事。
1948年6月國共內戰期間,中共将领林彪進行長春圍城,禁止糧食進城,國軍于是收集城內的糧食,造成很多人餓死街頭。10月21日,城內守軍鄭洞國投降。活過來的人說,「就喝死人腦瓜殼裡的水,都是蛆。就這麼熬著,盼著,盼開卡子放人。就那麼幾步遠,就那麼瞅著,等人家一句話放生。卡子上天天宣傳,說誰有槍就放誰出去。真有有槍的,真放,交上去就放人。每天都有,都是有錢人,在城裡買了準備好的,都是手槍。咱不知道。就是知道,哪有錢買呀!」參加圍城的中共官兵說:「在外邊就聽說城裡餓死多少人,還不覺怎麼的。從死人堆裡爬出多少回了,見多了,心腸硬了,不在乎了。可進城一看那樣子就震驚了,不少人就流淚了。」[36]|
中華人民共和國[编辑]
1959年-1961年「大躍進」期間,中國大陸發生“三年大饑荒”,死亡人數过千万。餓殍遍野,到處都有餓死倒斃在路邊的人,有些地方甚至出現吃人肉的現象。《墓碑》一書引梁志遠的《關於「特種案件」的匯報——安徽亳縣人吃人見聞錄》記載指人吃人並不是個別現象:“其面積之廣,數量之多,時間之長,實屬世人罕見”。[37] 1960年春,吃人肉情況不斷發生,人肉的交易市場也隨之出現在城郊、集鎮、農民擺攤等。[38]《中國大饑荒,1958-1962》引用的中國官方檔案中有吃人記載,如在四川省石柱土家族自治縣的桥头区,老妇人罗文秀是第一个开始吃人肉的人。在家人一家七口全部死去后,罗文秀把三岁女童马发慧的尸体挖出来。她把小女孩儿的肉割下来,用辣椒调味,然后蒸熟吃掉。[39]另一份1961年1月27日的文件,讲述了一个四川母亲用毛巾勒死了自己五岁大的儿子,“吃了四顿”。调查者王德明写道,“这样令人震惊的可怕事件远非只有这一起。”[39]三年大饑荒的口述歷史《尋找大饑荒倖存者》记载了四十九起人吃人事件。[40]
1959年,重慶石橋賣人肉包子。“养父悄悄给我五角钱。生日这天,我跑到石桥一个水馆子买了两个肉包子(每个两角,余一角抵粮票),带回家,给养父与妈各一个。”“她(妈妈)拿起包子的碗,想起什么似的,问我在石桥哪家馆子买的。”“我说,当然是水馆子,每个人都说那儿的肉包子肉饺子好,真是人多得很,还排队。”“从母亲不太连贯的话语裏,我听出了个大概:灾荒年水馆子的包子是用小孩的肉剁烂做的馅。……当年有人发现馅肉里有手指甲,告发了……”[41]
1959年10月至1960年4月,信陽事件,商丘、開封餓得人身浮腫,吃樹皮,餓死100萬(到數百萬)人口,時諺:“人吃人,狗吃狗,老鼠餓得啃磚頭。”“信陽五里店村一個14、15歲的小女孩,将4、5歲的弟弟殺死煮了吃了,因爲父母都餓死了,只剩下這兩個孩子,女孩餓得不行,就吃弟弟。”[42]
甘肅省通渭縣,1958年全縣糧食實產8,300多萬斤,虛報1.8億斤,人口大量死亡;有人回憶“1959年11月到臘月,死的人多。老百姓一想那事就要流淚。餓死老人家的,餓死婆娘的,日子過得糊裡糊塗。把人煮了吃,肉割來煮了吃……人甚麼也不想,甚麼也不怕,就想吃,想活。把娃娃、自己的娃娃吃下的,也有;把外面逃到村上的人殺了吃的,也有。吃下自己娃娃的,浮腫,中毒,不像人樣子。有的病死了,也有救下的。吃了娃娃心裡慘的,吃過就後悔了,自己恨自己。在村子里住不下去,沒人理他,嫌他臟。”(《50年代末大飢荒驚人記實》)
河南省固始縣官方記載有二百例人吃人事件,縣委以“破壞屍體”為名,逮捕群眾。人吃人事件在四川、甘肅、青海、西藏、陝西、寧夏、河北、遼寧皆有耳聞,幾乎遍及全國。[43]
青海人吃人事件110多起,漢東公社楊家灘生產隊的婦女竟吃了9個小孩。[44]
「有一戶農家,吃得只剩了父親和一男一女兩個孩子。一天,父親將女兒趕出門去,等女孩回家時,弟弟不見了,鍋裡浮著一層白花花油乎乎的東西,灶邊扔著一具骨頭。幾天之後,父親又往鍋裡添水,然後招呼女兒過去。女孩嚇得躲在門外大哭,哀求道:『大大,別吃我,我給你摟草、燒火,吃了我沒人給你做活。』」[45]
作家王立新1980年代曾赴凤阳采访过,他在报告文学中写道:“梨园乡小岗生产队严俊冒告诉我:1960年,我们村附近有个死人塘,浮埋着许多饿死的人。为什么浮埋?饿得没力气呀,扔几锹土了事。说起来,对不起祖先,也对不起冤魂。人饿极了,什么事都干得出来。我的一位亲戚见人到死人塘割死人的腿肚子吃,她也去了。开始有点怕,后来惯了,顶黑去顶黑回。我问她:‘怎么能……?’她叹息道:‘饿极了。’”[46]
文化大革命時期,廣西傳出多起食人事件,其中人食人最厲害的地方之一是廣西武宣縣,約有130人左右被食。作家鄭義曾在文革後赴廣西調查,據他的統計廣西全省至少有一千人被食。紀錄片「文革廣西武宣縣紅衛兵吃人肉事件」評論,這些食人事件並不是因為飢荒,而是因為政治運動製造出來的仇恨心態[47]。
武宣“一女民兵因参与杀人坚定勇敢,且专吃男人生殖器而声名远播,并因此入党做官,官至武宣县革委副主任。处遗时期中共中央书记处一天一个电话催问处理结果,并严厉责问:‘像这样的人,为什么还不赶快开除党籍?’但该副主任拒不承认专吃生殖器,只承认一起吃过人。最后的处理是开除党籍,撤销领导职务。现已调离武宣。”[48]
1990年代,北京積水潭醫院一名名叫王衛平的女性護工因割食截肢病人的殘肢被院方辭退。[來源請求]
2011年湖南郴州桂陽縣方元鎮50歲村民肖蘭生至少將4名女性碎屍並吃掉。
”
以上纏めると、中国に於いては清朝までと限らず、その後の中華民国、そして中国共産党が支配する現中華人民共和国に於いても食人が、しかも中国共産党幹部が饗宴を開く時、人食をするのが普通であった。
<[註2]“中華民国期、現中華人民共和国期に於ける食人”は以上>
ちなみに2011年の日本人行方不明乳幼児は1000人であった。
2011年の中国人観光客(この中には多くの中国共産党員が含まれている)は約100万人であった。
1000 / 1000000 = 1 / 1000
日本人行方不明乳幼児数は2015年に約4000人であった。
日本への中国人観光客の数は2015年年間約1000万人であった。
4000 / 10000000 = 4 / 10000 = 1 / 2500
この1 / 2500も先の1/1000にオーダーとして相当近い比率です。2011年の方が比率が高かったのは、未だ中国人観光客(この中には多くの中国共産党員が含まれている)がそんなに多数押し寄せて来なかった頃は、サービスも今より“至れり尽くせり”であったから、とも説明が付きます。
実際乳幼児行方不明数が1000名規模に膨れ上がったのは、中国人観光客(この中には多くの中国共産党員が含まれている)が日本に多数押し寄せるようになってからであります。
ですから、中国人観光客達(この中には多くの中国共産党員が含まれている)の日本訪問と日本人乳幼児行方不明の間には相当重大な相関関係が有る、と結論付ける事ができます。
その相関関係が因果関係にも成り得るのは、中国人なる民族が今も食人風習を持っているからであります。
[註3]:御覧下さい。中国人が子供を食用に附している眼を背けたくなるような写真です。
平然と胎児を料理して食べる中国人
次も同じく眼を背けたくなる画像です。
http://sound.jp/sodaigomi/ch/syokujin/syokujin.htm
しかし中国人にとっては食人は別にどうっていう事も無いような事としか意識されていないようです。
現在まで、中国人観光客が日本人乳幼児を食べる現場は確認されていませんが、海外観光客の中で断トツに犯罪件数が多いのは中国人観光客(この中には多くの中国共産党員が含まれている)です。
http://ameblo.jp/japangard/entry-12058198534.html より。
ですから、これからは、中国人が日本人の子供を浚おうとしていないか、食べようとしていないか、今正に食べていないか、食べ終わったところではないか、我々日本人は眼を皿にして見張る必要が有ります。
年間数千人の日本人行方不明乳幼児を今も食人風習を持つ中国人観光客(この中には多くの中国共産党員が含まれている)が食べたとなると、この中国による行為は、北朝鮮の拉致問題どころか、ISの斬首刑どころか、前代未聞の世界的大事件となり、中国共産党にとっての世界史的大醜聞となります。
以下、RAPT氏の http://rapt-neo.com/?p=12498 より引用。
“エリザベス女王と前ローマ法王ベネディクト16世に対して、カナダで5万もの幼児を虐殺したかどで逮捕状が出されており、現在もその裁判が続けられています。マスコミがこの件について一切報道しないので、知らない人が大半だと思いますが……。
○悪魔崇拝はあるのか? エリザベス女王とローマ法王による5万人の幼児虐殺事件について。
さらに国連も、宗教儀式のために幼児たちが犠牲にされている件について、公の場でイギリスにはっきりと警告を発しています。”
RAPT氏は“悪魔的宗教儀式”と呼んでいますが、ユダヤ教イルミナティ闇の権力は“悪魔的宗教儀式”を動機として食人した事を批判しているが、欲望を動機とする中華覇権闇の権力の場合、資本主義市場に於ける需要が万の単位の殺人人食を引き起こしている恐ろしい実体が有る。つまり“悪魔的宗教儀式”を動機としたユダヤ教イルミナティ闇の人食以上に、中華覇権社会帝国主義闇の権力の市場経済的動機と、政敵・反体制社会勢力(法輪功、ウイグル・イスラム教徒達、等)の政治軍事的抹殺の動機に依る人食は、我々全人類にとって根本的な最重大なる脅威である。
食欲、性欲を満たす為に特に乳幼児が一般中国人の好物となり、中国共産党の饗宴の際には、倒した政敵を処刑人食するが普通に行われて来た。
日本人乳幼児年間数千名の行方不明の原因を中国共産党員観光客の食人と関係づけたのは、史上私が初めてであるが、中国の食人が清朝以降も大々的に続けられて来ている事に対し、世界に警告を発した著書として大田龍(竜)著“宇宙一危険な発狂中国”という題名の本が有る。
注意すべきは、中国共産党を根底から罵倒するこの大田龍(故人)という人が極右ではなく、学生時代に新左翼、それから陰謀論、そして中国共産党の人食を批判、という“思想遍歴”を経て来ている人である点である。私自身が大田龍という人の存在を知ったのは、極最近の事であるが、私も偶然、彼と同じテーマを時系列的に認識して来ている事を極最近知った。大田龍氏はそのテーマそれぞれを事実として知った時に、それを自分のそれまでの思想体系との関連で消化しジンテーゼを創り出す事が出来ずに、事実を事実として受け入れてしまった結果、私は彼の場合には“思想遍歴”だったと呼んだ。これに対し私・佐野千遥は、新左翼、陰謀論、中共の人食のテーマをスミルノフ物理学を起点として、無矛盾の体系で宇宙観世界観を展開して来ている。更には大田龍氏は晩年にザカリア・シッチンのニビル星人説にヒントを得たデービッド・アイクのレプティリアン人類説を日本語に翻訳して自分の論としても主張したのに対し、私・佐野千遥はそのザカリア・シッチンのニビル星人説とデービッド・アイクのレプティリアン人類説を体系的に批判し、「言語科学に基づく人類系統図」として、やはりスミルノフ物理学からの全科学体系=全世界観の中に無矛盾の体系として理論的に組み込む事に成功している。
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年間数千人の日本人行方不明乳幼児は今も食人風習を持つ中国共産党観光客が食べたのか?!Dr佐野千遥
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